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もっとコンスタントに賑わうようにならんかなぁと願ってます – 【牟岐ふるさと会】坂本 五朗さん

牟岐町出身で京都に就職し、それ以来京都にお住まいの坂本五朗さん。京都では島津製作所に入社し、医療用X線装置開発などに従事してきた。アメリカ(LA)やカイロ(エジプト)、デュイスブルグ(ドイツ)など海外拠点の業務にも従事された経験もあるほどだ。
2012年には定年退職。また2010年12月から宇治市民生児童委員協議会委員を務められており、『旧近畿牟岐会』にも所属されており、現在は『牟岐ふるさと会』の役員でもある。そんな坂本さんに「故郷への想い」を中心に今回はお話をお聞きしてきた。

故郷に対して何も思わない牟岐出身の人はいない

編集者
坂本さんは牟岐町ご出身ということで、非常に牟岐への想いが強いとお聞きしています。先ずはその牟岐愛についてのお話をお聞きできたらと思います。

坂本さん
そりゃそうやねぇ(笑)牟岐町で生まれたからねぇ。
でも私のみならず、田舎で生まれた人間にとって故郷はすべてに対して愛着があるもんやと思うんやけどな。
表現は良くないけど故郷は人口減少化で寂しくなるばかりで、そうした状況の故郷に対して何も思わない牟岐(出身)の人間はいないと思うんや。
私の仲間の中にはようけ漁業関係者がおって、また中には素潜りの名人とかもおってな、表には出さんけど、もうちょっと牟岐町元気にならんかなと考えとるんや。
私は1969年に京都へと就職して牟岐町から離れているんやけど、それから20年経ち、30年経ち、40年経った頃に魚が獲れんくなったと漁業関係者の方々が嘆いてしまっている。現実は、やっぱりちょっと寂しいな。もしかしたらずっと前から漁礁構築に力をいれて来ておれば、何か対応策が出来とったかもしれんけども。まあ、そんなことは結果論であり、当時そこにはいろんなテーマや問題があり壁に突き当たったんやと思う、そのあたりはどこのどんな集団にもある複雑な理由が背景にあったんかと思う。

編集者
牟岐町を離れてからどれぐらい経った時に坂本さんは牟岐が廃れていく感覚を感じたのでしょうか?おそらく日本全体の経済状況と比例するのかと感じているのですが。

坂本さん
そうやなぁ…雰囲気を感じたのは80年ぐらいの頃には、なんやねんちょっと寂しくなったなぁと感じたかなぁ。昔あったお店が閉まっとっていわゆるシャッターストリート等になってしまっとったんやなぁ。

編集者
それが最初に牟岐町の衰退を感じた時だったんですね。

坂本さん
そうやなぁ、年に盆と正月に帰ってくるぐらいだったんやけど、最初の頃はそこまで寂しさは感じてはいなかった。私が就職したばかりの71年ぐらいの頃には、牟岐が衰退していくとは思ってもみなかったなぁ。せやから商店街がシャッターストリートになっていくのを見た時は寂しかったなぁ。

編集者
それでは毎年坂本さんが帰ってくる度に、それが顕著に現れていってたんですね。

坂本さん
まさに見る側から見て顕著に現れていったなぁ。

編集者
80年頃というと日本はバブル前のまだまだこれからって時だったと思うのですが、すでにその時に衰退を感じたってことになりますね。

坂本さん
そうやな、自分の故郷やから目に見えたものを敏感に感じとってしまったんちゃうかなぁ

編集者
坂本さんの仰るシャッターストリートというのは牟岐町の商店街の事でしょうか?

坂本さん
本町商店街とか中の島の商店街とかいうねんな、少年時代の時にはようけお店があってな、牟岐町はちょっとした街だったんや。パチンコ屋も三軒あったし、映画劇場も二つもあったんや。ローラースケート場もあってな。
高専に通っていた時には社会勉強でこの町の産業について調べたこともあってな。製材所の売上がなんぼだとか、鮎の養殖場があって、年間の売上がなんぼやとか(笑)

編集者
へぇ、牟岐町に鮎の養殖場があったんですね。

坂本さん
コンクリート製の大きな生け簀が複数基あってな。一匹なんぼで出荷してるんですか?とか聞いたりしてそれで年間の売上計算してな。

編集者
阿南高専を卒業してからはずっと京都にお住まいなのでしょうか?

坂本さん
そうやな、島津製作所という会社に就職してな。レントゲンの開発部に入って、何年かしたら私が携わったX線装置が県立海部病院で稼働していたわ。X線テレビっちゅうやつやな、X線出して、胃の中の状態とか、骨の構造などがテレビモニターで見えるという診断装置。自分が携わったモノが故郷の病院で使われとったのには感激したなぁ。

親睦会から牟岐を盛り上げる会へ

編集者
坂本さんは京都に住みながらも故郷を想い、近畿牟岐会、そして牟岐ふるさと会に参加するなどの活動をされていると思います。その活動の理由をお聞き出来たらと思います。

坂本さん
近畿牟岐会は私よりも10年も上の方々が創りあげて来た会でな、私らよりもずっと見識のある方々が創設したんや。私らは創設後何年かしてから参加させてもらって、そのなかでも一番若手の類であったわな。

編集者
皆さんが高齢になったこともあり近畿牟岐会は解散し、それで牟岐ふるさと会を創設することになるというわけですね。

坂本さん
役員も高齢化し、運営していくのもなかなか難しいところもあったから、具体的には牟岐町役場の方にお願いをし、結果牟岐ふるさと会として改めて発足することとなったわけです。

編集者
では、牟岐ふるさと会はどのような活動をしているのでしょうか?

坂本さん
先にも申し上げた様に、現在ふるさと会の本部は牟岐町役場の方にあり、活動詳細については企画政策課が推進しています。私自身は、「ふるさと会会則」の(事業)から「牟岐町の活性化と賑わいへの提言創出」の項に基づいて活性化(賑わい)の材料を探し出すことに主眼を置いてやっています。話は戻るけど、近畿牟岐会の初期の頃は故郷を想う親睦会が主やってな。しかし親睦会だけをやっとっても牟岐の発展に寄与しませんやろってことになって、そこで出羽島にハイビスカスを植える活動を行って来たりしたんです。しかし、常時メンテンナンスする事も中々行けていない状況であってな。

編集者
近畿牟岐会は親睦会が主だったけれど、途中からは牟岐町をなんとか盛り上げて行こうといった活動が中心となり、それを牟岐ふるさと会が受け継いでいくといったことでしょうか?

坂本さん
まあそんなところやねぇ。牟岐ふるさと会については、いきなりコロナ禍で蹴躓いてしまったところがあるから、実際にはまだ正常に活動出来ていないと言うのが現実やねぇ。

 

牟岐ふるさと会についてはこれから活動を行っていく段階だが、坂本さん個人のフットワークは軽く積極的に動いている印象だ。以下の写真は12月9日に行われた「関西牟岐の日」。坂本さんにもこの日、京都から足を運んでいただいた。参加していた学生さんに牟岐町の想い出話をしているのが印象的だった。

京都産業大学 木原ゼミのイベントにも参加

編集者
牟岐町のイベントに積極的に参加される姿勢を坂本さんは持っていると感じます。京都産業大学の木原ゼミのイベントにも参加をしたとお聞きしました。そうした参加するキッカケだとか、それをどのような想いで参加されたのかをお聞きできたらと思います。

▲12月16日に京都で行われた木原ゼミのイベントの様子。

木原ゼミとは?

京都産業大学 現代社会学部プロジェクト演習 木原ゼミ
ゼミでは大人数で複数のプロジェクトを同時進行させ、また、それぞれの場面で社会人と協働するため、組織立った活動が求められます。そのため、木原ゼミでは、ゼミメンバーが各部門に所属し、部内で創意工夫しながらゼミ組織を自主運営する体制を構築していきます。また、この経験を通して、責任感と仕事を完遂する力、組織でのコミュニケーション力を鍛え、将来の自分の仕事の適性を知ることにもつなげます。
坂本さん
まず、これに参加したキッカケというのは、企画政策課の西沢さんからご連絡いただいて「こういうイベントがあるんだけども参加できないか」といった要望があったので、オリジナルの牟岐の人間として私が参加することで大学生の方々の牟岐への関心がさらに深まればいいかなと思って参加をしました。

▲ゼミ生はこれまで牟岐町に何度か訪れ、牟岐町を知ることで関係を築いてきた。そこに牟岐出身である坂本さんにもご参加を頂いた。

編集者
坂本さんの場合、牟岐町に関わることなら迷いなく参加されているのかなといった気がするんですけれども、そのあたりいかがでしょうか。

坂本さん
ああ、そうやねえ。迷いはないですね。スケジュールが許せば参加します。

編集者
それはやはり牟岐に対する想いだとか、今牟岐町でどんなことが起きているのかとか、そういった牟岐町の動向が気になるということでしょうか。

坂本さん
そうやねえ、結局これに参加をすることで、さっきも申し上げたけれども、ゼミの皆さんがより牟岐のことを知っていただけるかなと思ってね。若い方々は牟岐の詳細までは御存じないだろうなと思うんですよね。だから私が参加することでゼミの若い方々が牟岐への関心というか、牟岐の知識をより多くそして深く持って頂けたらいいかなと。私自身は牟岐の人間やからそれは何もかも愛着があって、発展のためにというか再構築のために何かできることはあれば、何でも参加してやって、という意識やねえ。

編集者
今回はじめてのイベントということで、参加されてどんな印象を受けましたでしょうか?

坂本さん
京都に牟岐のお母さん方が来られて、牟岐の料理をゼミの皆さんに手ほどきし、一緒に食べるというのは、正直不思議な感じがしたんだけども、非常に嬉しいなと感じたねぇ。


▲牟岐の郷土料理である『押し寿司』。柚子の酢を使った酢飯に、金時豆やたまご、ごぼうなどの煮物を中に入れるのが特徴。ちらし寿司の具を押した寿司といった感覚でもある。

編集者
押し寿司を作ってくれたそうですが、坂本さんにとっても懐かしい料理なのでしょうか?

坂本さん
もちろん!少年時代におふくろが作ってくれた美味しい料理のひとつやね。祭りごとなんかの時に食べるのが多くてな。その時に食べるのが一般的やったねえ。だから押し寿司は私の原体験そのものやね。

編集者
坂本さん自身、押し寿司は何年ぶりに食べたのでしょうか?

坂本さん
そらもう、半世紀以上ぶりに食べたねえ。おふくろが作ってくれて食べていたのが最後だったからね、懐かしかったし美味しかった!

編集者
ゼミの皆さんがライスバーガーを作ってくれたそうですが、こちらはどうでしたか?

▲ゼミ生が考案して作った『ゆず味噌香る牟岐ライスバーガー』。連子鯛のフライやゆず味噌など、牟岐の材料がふんだんに使ってある。

坂本さん
非常に美味しかった!大根おろしに柚子味噌が入っとって、それが甘酸っぱいドレッシングとして効いとって非常に美味しかった!どういう中身やったかはちゃんと覚えていないんやけども、ご飯におごげを残して工夫して作っとったねぇ。

編集者
こちらの料理には牟岐の懐かしさは感じましたか?

坂本さん
ライスバーガーはゼミの皆さん方の“発明料理”やから、懐かしさとかは違うんやけども、新しい牟岐の料理をクリエイトしたんちゃうかと感じましたわ!

▲牟岐に訪れ、牟岐を知ることで考案したライスバーガー。昨年は販売もしたようだ。

編集者
木原ゼミに参加された感想をもう少しお聞き出来たらと思います。

坂本さん
第一に感じたことは、これだけの人が牟岐の事に関心を抱いて動いているのはすごいことやな〜と思いましたわ。せやから今回だけのイベントに終わることなく、これを機に牟岐という町がどんどん外へと広まっていくことを願いますわ。例えばこれを水平展開して「大学生と一緒にこんな楽しい事をしている牟岐の町ってってどんなところなんだろう?」とかね、今回のようなイベントを機に行ってみたいって思える町として、発展していったらいいなと思うし、牟岐の賑わいとして新しいうねり作って欲しいな。ただ、そのためには並行して牟岐の町自体が受け入れ態勢をさらに整えないかんと思いますわ。

牟岐を象徴する景色は五剣山

編集者
では先程のお話と重複するかもしれませんが、今後牟岐町がどうなっていって欲しいかなどありましたら、是非お聞かせください。

坂本さん
どこもそうなんやけど、姫神祭りという牟岐の一大イベントでは多くの賑わいを創出します。そういう賑わいがコンスタントに続くような事(モノ)ができんのかなと思ったりしてます。
そこで、コンスタントに賑わいを創るにはどうしたら良いのか?ということをテーマに、牟岐ふるさと会の活動の中で展開できればいいのかなと感じてます。
牟岐八幡神社の祭りにしても、関船などが出て賑わいますね、そこからもっと常時盛り上がりを見せてくれるように工夫出きないものかなっともおもったりしてます。例えば、関船を観光客の皆さんに見えやすいところに常設展示しておき、それが「秋になると動くんやで」、とじらし宣伝をしておくとか。あの祇園祭もそう、動いてない山鉾が“巡行する姿に多くの人が集まるん”だから。「世界一の関船」の真骨頂を見せてほしいものです。

編集者
なるほど。因みに坂本さんが好きな牟岐ってどんなところがありますか?故郷だから好きもなにもないかもしれませんが。

坂本さん
好きなところ?全部好きやけどねぇ。特に好きなのは大川橋から五剣山を見晴らす景色は最高やねぇ。あんな素晴らしい景色はないねぇ。

▲坂本さんから提供いただいた牟岐町の昔の写真。坂本さんが素晴らしいと言うのも頷ける。

坂本さん
今は潰してしまってないけれども、窓を開ければ私の昔の家からそういう景色が見えたんや。牟岐を象徴する景色やなぁ。

編集者
子どもの時はやっぱり川で遊んだりすることが多かったのでしょうか?

坂本さん
自宅前がすぐ川やったので、夏休みには朝起きると川に行き、アユやエビ獲りに熱中しました。エビにはシラガ、小ヤデ、ヤデとあってそれぞれ5センチ、8センチ、12センチと、てんぷらにするのにちょうどいい大きさでおふくろに揚げてもらい昼食やったり、夕食のおかずにしてもらっていました。半日川にいてエビは30匹以上獲れましたね。
山、野原(田畑)にもよく遊びに行きました、小つぶの石を挟んでゴムで飛ばすパチンコがありますが、大型(長手)のパチンコを作って、鳥打ちに行ったものです。自転車のチューブを縦長に切ってその動力とし、木で作った長さ70センチくらいの銃筒の先端両側にくぎを打ち、そこに動力の加工したチューブを固定し、小粒の石を皮で挟み、引き金部分に固定しておく。引き金を引くとゴム動力の強烈な勢いで石が発射します。それを担いでよく小鳥打ちに野原を駆けまわったものです。

編集者
では、最後に以前にこちらでも記事にした『灯閑』や『遊観』などを中心に、牟岐出身の若い人たちが牟岐を盛り上げようと頑張っていますが、それについて何かお言葉を頂けたらと思います。

坂本さん
それはもうビックリして、牟岐の若者も捨てたもんじゃないなと思てな。ああいう人らが狼煙を上げることで、他の若者も一緒に手伝ったりし、そのようにして一つの塊(グループ)が出来上がる。そしてまた違う場面に異なる種類のアイデアが出て一つのイベント(グループ)として世間に出る、と言う風にあちこちでイベントが発生して行く。そしてそれらが繋がって行き一つの大きなうねりを形成して新しい牟岐のコンポーネントとなって行く。そこまで行くともう行政が絡まって道先案内を司らなければならない様になりますわね。

文字には起こしていないがインタビュー中には多くの企画提案もしてくださり、とにかく牟岐を想ってやまないのが印象的だった坂本さん。また牟岐町独自の阿波弁はなく、京都の訛りだったのもとても印象的だった。おそらく京都に住まれている期間の方がずっと長く、必然的に京都訛りへと変わっていったのだが、故郷である牟岐への想いは反比例して余計に大きくなっているようにも感じた。コロナ禍あたりから牟岐へ帰ることが出来ていないとも仰っていた坂本さん。久しぶりに是非帰ってきていただけたらと思うと同時に、今後の牟岐ふるさと会の動きにも期待したい。

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