昭和南海地震の体験を、今日からの防災に生かす。
中山清さん(88歳)
1946年12月21日、戦後まもなくして発生した昭和南海地震。県内各地で甚大な被害を受けました。当時16歳だった中山清さんは家族とともに高台に避難して、津波から難を逃れたひとり。数少ない昭和南海地震の体験者としての教訓と想いを次世代へと語り継いでいます。
地震発生当時は夜明け前だったと思うんですが、中山さんは何をされていたんですか?
当時、私は海部中学校の4年生。学校に行くので起きてはいました。一番の汽車が5時30分くらいだったんですよ。
揺れが起こった時のことは今も鮮明に覚えていらっしゃいますか?
覚えています。結構揺れましたね。時間は分からないんですが、横揺れでゆっさゆっさ。私らは地震が来るのを知ってたんですよ。地理の時間に先生が「もうそろそろ地震が来る時期や」って話してくれていて、おっきいんが来るっていうんを中学校で習ってたんですよ。私の父親も来るのを知っていましたからね。「そらきた!」って思いました。驚きはせなんだったんですよ。南海地震の2年前に東南海地震いうんがありまして、その時も潮がきたりしてて中学校の校庭に避難しました。その時はすごくて、地割れするかと思うくらい揺れました。
先生やお父さんから以外に、地震があるという情報を得る手段はあったんですか?
テレビやラジオは全然なかったんで知らない人も多かったですよ。今みたいに防災のことをいっていなかったですからね。私の父親は鮮魚運搬船に乗っていて東北の釜石や宮古へ毎年行っとったんですよ。釜石で三陸の地震の時、津波の話を父親が聞いとったから、「地震が来たら津波が来るから逃げんといかん!」っていうんは分かっとりました。
地震が起こることを全く知らない方もいらっしゃったんですね。揺れている間はどうされていましたか?
揺れている間は父と母と小さい妹2人とみんなで大黒柱にしがみついて地震が止むのを待っていました。
大きな揺れだったと思いますが、ご自宅は大丈夫だったんでしょうか?
昭和南海地震の時は、牟岐の場合は地震で壊れた家はないんですよ。ほれともうひとつ、火災がなかった。冬の朝の4時半やからね、まだあまり火を使ってないし、ほれと竈と囲炉裏やったでしょ。危険を感じた人は水をぱっとかけたら消火できましたけんね。
ご自宅は川の近くだったんですか?
そうです。「さぁ、逃げるぞ」ってなった時に父親がどない言うたかというと「海蔵寺に逃げなさい」と。高台にありますから。私は最初、海蔵寺への一番近いルートと思い、観音寺川の方に家を飛び出たんです。外に出たら膝まで波が来ていました。ほれで父親に「川の方へ行くバカがおるか!」って怒られて、引き返して別のルートに。父親は一番津波の遅いコースを考えとったようです。私以外の家族ははじめから父親のコースで逃げたんで誰も濡れてないんです。
お父さんの誘導で高台に逃げられたんですね。その時どんなお気持ちでしたか?
家は残らんって思ってました。着られるだけのもんを着て逃げました。12月だったから寒かったですね。もちろん、懐中電灯もないし、暗がりの中逃げましたね。
何を持って逃げられたんですか?
私は位牌を持って逃げ、母親は子ども1人をおぶって何も持たずに。それと私は妹が小さいので薄い夏布団みたいなのを1枚持っていったんですよ。ほやけど、当時、海蔵寺は急な階段だけ。手すりもなかったんですよ。物持って上がれんのよね。いっぱい上らんとあかんから。その場で布団はほってしもたんですよ。位牌は風呂敷に包んで背中にしょってたんですけど、すっぽ抜けてなかったです。ほしたら後日、ほの位牌は家の畳の上に残ってましたわ。父親は前の日に配給があったので、トウモロコシの粉を一斗缶に入れて逃げました。
食料はトウモロコシの粉だけ持って逃げられたんですね。
そうですね。それを食べた記憶はあんまりないんですけどね。
生死を分けた「地震=津波」の知識
津波が来ると知っていた人は高台に逃げたんですか?
そうですね。津波を知らんと家におった人もいます。私は地震が起こったら逃げるっていうのは知っていました。ほやけどすぐに津波が来るやいうことは知らなかったんです。実際、川の方に飛び出して失敗したんですが、父親がおって冷静に考えて逃げ道を別に作れたからよかったですけど、できていなかったらそのまま川で流されていたと思います。津波で私の家は床上1mくらい浸水。家自体は残っていました。川の向こう側の家はみな流されていました。(当時の住宅地図を指しながら)緑は床上浸水、黄色は床下浸水、ピンクは半壊。
逃げるときは近所の人たちにも声をかけたんですか?
私の近所はね、もうみな逃げてましたね。うちが一番遅かったですね。近所の人は津波が来ることをみんな知ってましたね。ほれと漁師の人は昔から地震がいったら浜へ行って潮が引くのを見に行く習慣があるんですよ。昭和南海の時は見に行ったけどすぐ戻ってきて「津波が来よるー!」って何人もが大きな声で「逃げー!」いうんを聞いて逃げとる人もようけおります。
避難後、海蔵寺から見渡した町の様子はどうでしたか。
道路は全部波が来ていました。全然浸かってないところもあって、その辺りの家にみんなお世話になったんですよ。東北の津波の時みたいに町全体が流れたいうんでなしに。津波が小さかったんだと思います。
津波は目に見えたんですか?
見えました。第一波は下からすーっと膨れ上がってきました。東北のように高い津波は見てないんですよ。
怖い印象はなかったんですか?
怖いというより、シケの時に川に向いて波が入ってくるでしょう、そんなんですよ。教えてもろとったような津波と全然形式が違うなと思いましたね。
亡くなられた方は逃げ遅れた方が多いですか?
いろいろあります。津波がくると知らんと地震だけと思って逃げ遅れた人もいます。とある農家さんは津波がすぐ来んと思ってお米を2階にあげよる間に逃げ遅れたんですよね。ここいらの人は全部どないして亡くなったか調べとんです。逆に逃げてなくても塀があったおかげで助かった人います。
牟岐町周辺の町も被害は大きかったんですか?
日和佐はほとんど被害がなかったんですよ。海陽町の浅川が一番ひどくて、もうほとんど全滅状態ですね。海南の方も。その時の震源地によって津波の大きい小さいが大分違うみたいです。由岐も牟岐ほどの被害はなかったみたいです。
もし、当時みなさんに津波の知識があってすぐ逃げなければいけないことを知っていたら、被害に遭われた方は減っていたと思いますか?
そうですね。知識があったら、やはり地震が起こったすぐに逃げとると思いますね。
中山さん一家はお寺に避難した後はどのように過ごしたんですか?
丸一日お寺にいた後、近くに知り合いの家があったのでそこに転がりこみました。お寺にだいぶおいてもらった人もいたみたいです。私はありがたいことに食べるもんに不自由しませんでした。どうして避難や避難生活がスムーズにいったかというと戦後だったからなんです。戦争中に常会組織っていうんがあって、それが物凄い活躍したんです。たとえば、配給とか亡くなった人の調査とか。常会組織がやっていたんです。
日頃から組織みんなで動くシステムが整っていたんですね。
体験者としての言葉が防災意識を高める
小学校の生活総合学習で地震の体験をお話されているとのことですが、中山さんが直接小学生に伝えていることは具体的にどんなことですか?
やはり防災の知識を持ってもらうということ。建物の耐震化と、地震が起こったらすぐ避難することが大切だと伝えています。昔だったら、地震が起こったら一旦潮が引いて、それから津波が来ると言われていました。現代は違いますね。地震が起こったらすぐに津波が来ることもあるし、揺れなくてもチリ津波とか火山の噴火とかで津波が来ることもある。そのことを知っておくべき。
牟岐町だったらどこに逃げるようにお話されているんですか?
昭和南海地震体験者として各地区で決められている避難場所に疑問を感じるんです。今の第一次避難の場所は高台っていうだけで逃げても何にもないんですよね。たとえば、東地区だったらサンラインの近くに逃げなさいと言われとるけど、逃げても何もないし道路におらんといかんのです。ほれで二次避難が小中学校の体育館です。夏はいいですけど冬は寒くておれんのですよ。私は困るなと思います。逃げた後が大事なんです。
中山さんは南海トラフ地震がまた起こると思いますか?
来るでしょうね。ほらもう100年前後に1回、必ず。今まで歴史がありますから。恐ろしいんが昭和南海が比較的規模が小さかったこと。地震で壊れた家がなかった。ほやけど、今のこの辺の土地は元が田んぼ。浄化槽を掘るだけで水が出てくるようなところ。だから地震が起こった時に果たして家が残るか…とは思います。
最後に、昭和南海地震での教訓は何ですか?
私の場合は津波は海からだけでない。川からも津波は来る。川や橋の方に逃げない。非常持ち出しはほんまの最小限で。正しい津波の知識を持たなかったら失敗しますわね。昔はね、地震が起こった後に潮が引いていたら、ごはん炊いておにぎり作ってから逃げなさいっていう言い伝えもあるんですよ。今は、危険でも地震が揺れてる最中に逃げ!何を持たなくても逃げろ!っていうふうに変わってきていますね。ほれと、逃げたら絶対に引き返さないこと。誰かを助けよったら、共倒れになってしまうから。自分の身は自分で守る。これが一番大切です。
南海トラフ地震は次いつ起こるか分かりません。今この瞬間に起こるかもしれないし、明日かもしれない。
はたまた数十年後かもしれません。だからといって何もできない訳ではありません。
体験者の声から得た教訓を糧に備えることができます。
だから中山さんは恐ろしい思いをした地震と津波の記憶を今に伝えます。
知っているか知らないかが生きるか死ぬかに変わった瞬間を経験したから。
自分の身は自分で守る。まずはその意識を。
今回の牟岐人
中山清さん