牟岐人 - MUGIZINE

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生まれ育った牟岐町と、とことん向かい合う

生まれ育った牟岐町と、とことん向かい合う

宮本享さん(66歳)

「集落支援員」として、牟岐町を元気にするための様々な活動を行っている宮本享さん。集落の困りごとを助けたり、地域おこし協力隊の企画をサポートしたり、ふるさとの活性化を地元の人の目線で支えています。

編集者
集落支援員になられたきっかけを教えてください。

宮本さん
地域が疲弊しとんのを目の当たりにしてね。町自体が弱ってきてるなって思ったんです。もともとあんまり町には関わることがなかったんで、退職してから町のことに関わらんといかんなって感じたんです。

編集者
集落支援員は何人で構成されているんですか?

宮本さん
2人です。

編集者
主にどんな活動をされてきたんですか?

宮本さん
集落支援員は3年前にスタートしたんですが、初年度は空き家対策をメインでやっていました。移住者促進のための「空き家バンク」の調査から。牟岐町に空き家がどれくらいあるのか調べていました。

空き家バンク情報

牟岐町の空き家の情報については、こちらから確認することが出来ます。
牟岐町空き家バンク登録物件一覧
編集者
現在はどんなことをされているんですか?

宮本さん
今は牟岐町の西又地区で炭窯をやっている西澤さんっていう人がおるんですけどね、そこでいろいろな手伝いをしているんです。メインは炭窯に関してなんですけど、木を切るところから炭ができるまでの一連の工程をお手伝いしてるんです。

炭窯の西澤さん

炭窯をやっていらっしゃる西澤さんのインタビュー記事はこちらから。
60歳で炭焼き職人に。山と窯で木の声に耳を傾ける。
編集者
西澤さんのところは数年前に町のみなさんと一緒に炭窯を新設されたと思うんですが、それは牟岐町にとっても大きなできごとだったんですか?

宮本さん
そうですね。牟岐町ではあそこでしか残ってない貴重な炭窯の文化なので。

編集者
炭の焼き方や作り方を知っている人を少しでも増やすために、宮本さん達がお手伝いしにいかれているんですね。

宮本さん
ちょっとでも興味を持ってもろて、ちょっとでも町に活かせんかなっていう西澤さんの思いもあって。僕たちもお手伝いさせてもらっています。

編集者
移住してきた人が炭作りに興味を持ったら、西澤さんや宮本さんでやり方を伝えていくということでしょうか?

宮本さん
そうですね。それが理想ですね。

編集者
やっぱり炭作りは大変ですか?

宮本さん
ほうやねぇ。

編集者
炭作りは西澤さんのところが初めてですか?最初の感想はどうでしたか?

宮本さん
めちゃくちゃおもしろいね。

編集者
どういうところが?

宮本さん
僕は海の方ばっかりで山のことは全然知らなかったんで、やることすべてが勉強になります。

編集者
炭作りの中で一番面白いって感じる部分は何ですか?

宮本さん
やっぱり炭ができてきた時。窯から出すときが一番の醍醐味ですね。出すタイミングとかはまだ全然わからんのやけど、作業自体が面白いですね。木を切るところからの工程を知ってるから、その分嬉しいね。

編集者
先ほど宮本さんは「海ばっかり」とおっしゃてたんですが、山に入られてみて感じた「山の魅力」ってどんなところですか?

宮本さん
海がキレイなんは山の恵みっていうのは概念としてよく聞いてたんですけど、実際に山に入ってそのことを物凄く感じましたね。ほんまやなぁって。山が荒れたらやっぱし海も荒れるっていうのが分かったんです。20年前と磯も随分変わってしまったし。知識としてはあったけど、実際に山に行くと、木の手入れする人が少ないんを実感するね。

編集者
自然はつながってるんですね。木を切ることもあるんですか?

宮本さん
僕らは手伝いだけですけどね。おっきい木はよう切らんのやけど、お手伝いして。それもめちゃくちゃ楽しいです。

知らないことが刺激になる

編集者
「集落支援員」は集落ごとに困ったことがあったらお手伝いしたり、活性化につながることを日々やっていらっしゃるんですね。

宮本さん
そうです。ほれと地域おこし協力隊の仕事のサポートをやることもあります。あとは、樵木林業(こりきりんぎょう)のお手伝いも少ししてますね。樵木林業はここいらに江戸時代から伝わる林業の形態。これも西澤さんがやってるからそのお手伝いをしてます。あとは小・中学生に炭窯を中心に社会見学してもらったりかな。

編集者
集落支援員を3年間やられてきて、やりがいを感じるのはどんな時ですか?

宮本さん
知らないことばっかりだったのですべて刺激になるね。山のことも、人のことも全く知らんかったし。牟岐町にどんな人がおるとか、どんな仕事をしている人がおるとか。集落支援員としては、今西澤さんがやっている炭の仕事を次の人に繋いでいけたらラッキーかなと思う。

編集者
人生のほとんどを牟岐町で過ごされてきた宮本さんでも新しい発見がたくさんあるんですね。

宮本さん
僕の場合特殊やねぇ。波乗りしてたし、仕事も忙しかったし。ほとんど町のことにタッチしてなかったんですよ。牟岐は好きやけど、全然接点がなかったから。その反動で関わりたいっていう気持ちが強かったんよね。集落支援員の募集がでたときはコレだって思いました。

編集者
ボランティアガイドの活動もされているとお聞きしました。

宮本さん
そうやね。山登りしたり、出羽島歩いたり、遍路道の整備したりしています。

「波乗り、ときどき仕事」なライフスタイル

編集者
お仕事はもともと何をされていたんですか?

宮本さん
オノグラスワークス(牟岐町)でサーフボードを作っていました。

オノグラスワークス情報

ウェブサイト
TSSC – ONO GLASS WORKS
オノグラスワークスでサーフボードを作っている家形さんのインタビュー記事はこちらから。
サーフィンも猟師もめっちゃハマるよ! – サーフボード職人と猟師 家形智史
編集者
いつ退職されたんですか?

宮本さん
61歳かな。

編集者
どのぐらい勤められていたんですか?

宮本さん
27歳の時に入ったから35年くらいかな。ちなみに、オノグラスワークスの社長さんが最初の移住者になるんよ。大阪から来てここで会社を立ち上げて。

編集者
宮本さん自身は牟岐町から出たことは?

宮本さん
大学が福岡やったんで4年間は外に出とったね。ほやけど休みの日はほぼこっちに戻ってきて。ほの頃「波乗り」を知って、がっつりハマって(笑)。これはもう牟岐におらんとあかんなと思ってね。ほれから波乗りが中心の生活になったね。当時はサーファーなんてほとんどいなかったんですよ。

編集者
地元でサーフィンができるってどうして分かったんですか?

宮本さん
僕が子どもの頃、「板乗り」ってやってたんですよ。洗濯板とか板っきれに乗って波の上を滑るような。ほんなんは小学生や中学生のとき海の近くの人はみな遊んでたんですよ。でもサーフィンがここらでできるもんとは思ってなかったんです。戦後、湘南の米軍からサーフィンの文化が入ってきて湘南の人達がするようになって、ほれが大阪まで伝わってきたんよね。オノグラスワークスの前社長はその先駆けなんですよ。カリフォルニアまで行って勉強してきて牟岐でサーフボードファクトリーをやりだしたけんね。僕も大学1年のときに初めてサーフィンを見て、これすごいわって興奮したなぁ。

宮本さんにお願いし、当時の写真を見せてもらう。宮本さん自身も見るのは何年かぶりだそう。

編集者
牟岐で見たんですか?

宮本さん
たまたま大阪に就職した牟岐の子がサーフボード持って帰ってきたんですよ。「うわ~これは!」って衝撃が走って以来、サーフィンに入りこんでしまったね。ほれから1年後、役場とか民宿がサーフボード購入してレンタル始めたんですよ。当時はけっこう盛り上がってましたよ。その頃、内妻は民宿がごっつい流行っとったけん。大阪の人間はみんなそこに泊まって、波乗りして帰ってたね。

当時の民宿のパンフレットに宮本さんの波乗りしている写真が使われていたことも。宮本さんのロコっぷりを伺える。

編集者
学生時代にサーフィンのとりこになってしまったってことですね。

宮本さん
そうそう、それが現在まで続いてしまっている状態です(笑)。

編集者
県外に出られたのは大学4年間だけなんですか。

宮本さん
そうそう。広告やデザイン関係の仕事に就きたかったんやけど、徳島は仕事がなかったんよ。ほやから、大阪に就職が決まっとったんやけど、どうしても波乗りしたいから徳島におりたいけん、徳島のデパートにそういう部署があったから入ったんよ。5~6年徳島市内におったけど、波乗りしたーてしたーて(笑)。1年ぐらい自分でサーフボード作ってた時もあった。市内におるときにアパートの部屋で作ったことがあるんですよ(笑)。どうしても牟岐帰りたいって思っとる時に、前の社長が「デザインできるんやったらウチに入らんか」って言ってくれて、退職して牟岐に戻ったんです。ほれが25~26歳くらいの時やね。結婚して子ども生まれた時に、脱サラして牟岐に帰ったんよ(笑)。

編集者
それぐらいサーフィンが生活の中心になっていたってことですね。

宮本さん
そうやね。病気やねあれは。すべてがサーフィンが中心やったから。今考えると無茶苦茶やね(笑)。

編集者
当時、一日のスケジュールはどんな感じだったんですか?

宮本さん
フレックス制だったから、波が出たら乗りに行って、夜に仕事っていう生活でしたね。ほの分、体はしんどかったけどね。

編集者
サーフィンの一番の魅力ってどんなところですか?

宮本さん
浮遊感がたまらん。それにハマってしまう。

編集者
最近もサーフィン行かれてるんですか?

宮本さん
ここ1、2年はケガばっかりしてできてないんやけど、この夏からまたやりたいね。

編集者
サーフィンはどの海岸でされてるんですか?

宮本さん
僕はほとんど牟岐の内妻ですね。さっと行けるんで。

長年暮らしてきた町のいいところ

編集者
牟岐町の一番の魅力ってどんなところだと思いますか?

宮本さん
月並みだけど自然がいっぱいあるところ。町に島が3つ4つあるんが一番の宝やと思うね。

編集者
それはなんでですか?

宮本さん
島ってなんか好きやね(笑)。なんか落ち着くね、島があったら。

出羽島に惹かれて牟岐町へと訪れる人は非常に多い。島は外から来る人に限らず、牟岐町に長く住んでいる人も魅了する何かがあるんだと感じる。

出羽島の情報はこちらのウェブサイトから

編集者
ちょっとそこまでの感覚でサーフィンができるのも魅力ですよね。

宮本さん
ほんまにそう! いつでも一番ええ条件で波に乗れるから、ごっつい贅沢なことだと思います。

18歳の頃に初めてサーフィンを知った日から、波乗りに人生を捧げてきた宮本さん。
これまで海の方だけを向いてきた彼が「集落支援員」として、山を知り、地域の人と手を取り合って町のおもしろいを次々と発掘しています。

海も山もつながっている。
いい時も悪い時も。

ありふれているかもしれないけれど、自然は町の大切な宝物。
自然と暮らす醍醐味を知っている宮本さんは、次の世代のためにも、この町と向かいあい、寄り添うように支え続けます。

今回の牟岐人

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宮本享さん (みやもととおる)

集落支援員・サーフボード職人

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